ぶらり城跡めぐり

信長の足跡を追いかけながら、愛知周辺の城跡を巡ります。

那古野城(なごやじょう)

織田信長 初期の居城

那古野城は、駿河今川氏親(今川義元の父)が尾張進出の拠点として、名古屋市の熱田台地に築いた城が起源とされます。

天文7年(1538年)に信長の父織田信秀が、計略をもって那古野城を奪い取り、天文11年(1542年)に幼い信長に譲りました。以降天文24年(1555年)までの10年余り、那古野城織田信長の本拠地となりました。

「なごや城」と聞くと名古屋城を思い浮かべますが、こちらは慶長14年(1609年)に徳川家康によって、那古野城の跡地周辺に築かれた城です。

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那古野城の所在地

那古野城名古屋城敷地内の二之丸周辺にあったそうです。

愛知県名古屋市中区二の丸1

 

 

名古屋城

那古野城址に行く為には、名古屋城の入場券(500円)を買う必要があります。

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正門をくぐったら、二の丸を目指して、東へ進みます。

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1.名古屋城天守と西南隅櫓

天守と西南隅櫓を左に見ながら東へ。

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2.名古屋城表二之門

表二之門も取り過ぎ、

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3.東南隅櫓

東南隅櫓を越えると、もうすぐ二の丸です。

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那古野城

二之丸広場です。二之丸周辺が那古野城の跡地なので、この辺りから城域でしょうか。もう少し東に進みます。

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向かって左の柵の中に看板と大きな石が見えます。那古野城址の石碑です。

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那古野城址の石碑

第二次世界大戦の空襲で焼けて、現在「那」の文字しか読めません。かつては那古野城址と刻まれていたのでしょうか。

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那古野城に関わる遺構は残っておらず、那古野城の存在を示すものとしては、石碑が1つあるのみでした。

 


那古野城廃城とその後

大永年間(1521~1528年)に、今川氏親(今川義元の父)によって築かれ、天文11年(1542年)には織田信長が城主になります。信長の年齢は8歳!?ぐらい。天文24年(1555年)に信長が清洲城に移ると、役割の薄れた那古野城は、天正10年(1582年)頃には廃城となりました。跡地は雉が多く住む野原になったそうです。

その後、慶長14年(1609年)に徳川家康名古屋城の築城に着手し、那古野城名古屋城へと生まれ変わります。

現在、那古野城の遺構は残っていません。那古野城があったことを示すものとしては、石碑が1つあるのみです。

勝幡城(しょばたじょう)

織田信長が生まれた城

尾州古城志によれば、織田信長は天文3年(1534年)に勝幡城で誕生したそうです。信長が誕生した城は諸説あり、これまでは那古野城誕生説が一般的に認められていましたが、最近では勝幡城誕生説の方が有力視されています。

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勝幡城の所在地

勝幡城名古屋市の西、稲沢市愛西市の境界付近の稲沢市側にあったと伝えられています。

愛知県稲沢市平和町城之内105

 

 

勝幡城復元模型

勝幡城址に行く前に、名古屋鉄道津島線勝幡駅を散策します。勝幡駅には、勝幡城の復元模型の他、信長に因むものがいくつかありました。

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南にピアゴ勝幡店、

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北に勝幡小学校があります。

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勝幡駅の北側の広場には、勝幡城の復元模型をはじめ、信長幼少期の銅像、信長のモザイク画がありました。

 

1.勝幡城推定復元模型

勝幡城天守を持たない館城で、二重の水堀に囲まれていたそうです。

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2.織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長像

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3.織田信長のモザイク画

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勝幡城

では勝幡城址に向かいます。この道をまっすぐ北西に進むと、川が見えてきます。手前が三宅川、奥が日光川です。勝幡城址はこの2つの川に挟まれた場所にあります。駅から城址までは徒歩で10分~15分ぐらいかかります。

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三宅川を渡ったら、日光川の手前の道を北に向かいます。以前はこの場所に案内看板があったのですが、2018年2月現在、無くなっていました。

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日光川に沿って北へ。

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しばらく歩くと、向かって右の住宅側に石碑らしき物が見えて来ます。

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1.織田弾正忠平朝臣信定古城蹟の石碑

たぶん「おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶさだこじょうせき」と読むんでしょうね。勝幡城を築いた信長の祖父、織田信定の名前が刻まれています。また、案内看板によれば、信長の父、織田信秀勝幡城で生まれたようです。

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元の道に戻り、更に北へ。この辺りから勝幡城の城域に入っていると思います。

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歩行者用の橋があります。城西橋です。

城西橋付近が勝幡城の中心になるようです。江戸時代の河川改修工事によって、勝幡城の大半は日光川に沈んでしまいました。信長が誕生した場所は、この川のどこかかもしれません。

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元の道に戻り、更に北へ。

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嫁振(よめふり)橋です。

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2.勝幡城復元図 

嫁振橋の欄干に、勝幡城復元図がありました。駅で見た模型と似ています。

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反対側の欄干は昔の日光川です。

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ところで嫁振(よめふり)って奇妙な名前だと思いませんか?嫁を振るって、どういうことなんでしょうか。調べてみたら、この辺りに多くあった丸葉柳の名前、与梅扶利(よめふり)からきているそうです。

 

嫁振橋は渡らず、反対方向の東へと進みます。すると勝幡城址の看板が見えてきます。

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3.勝幡城址の石碑

この石碑は大正4年(1915年)に、地域の住人が愛知県知事にお願いして建立されたそうです。石碑にも100年の歴史があるんですね。また、案内看板には、ここ勝幡と津島が、如何に織田家にとって重要であったかが記されていました。

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勝幡城に関わる遺構は残っておらず、勝幡城の存在を示すものとしては、石碑が2つあるのみでした。

 

 

津島街道

では、このまま東へと向かい、津島街道を通って、勝幡駅に帰ります。

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三宅川を再び渡り、しばらく歩くと、T字路に差し掛かります。突き当たりの南北に伸びる道が、津島街道です。

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1.津島街道

津島街道は、古くから津島神社甚目寺観音に向かう参道として、にぎわいました。那古野城時代の信長も、この道を通って津島の祭りを見に行ったと伝えられています。民家の手前に道標があります。

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2.津島街道道

左つしま道、右なごや道と刻まれています。天保6年(1835年)に設置された道標です。名古屋から西へと伸びる津島街道が、ここで南に折れ曲がります。

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津島街道を南に進み、勝幡駅に戻ります。

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道中の古民家に、「信長生誕を育む会」の看板がありました。

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勝幡駅に戻ってきました。この日の天気は大荒れで、雪が降っています。

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勝幡城櫓台の基石

もう少しだけ足を延ばして、愛西市役所佐織庁舎に向かいます。

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庁舎の向かって左の片隅に、大き目の石が見えます。

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勝幡城の石

昭和54年(1979年)に、勝幡城の櫓台とされる位置の3m地下から発見された基石です。この2つの石が勝幡城の櫓台を支えていたのでしょうか。

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勝幡城城郭図

佐織庁舎の向かいの佐織公民館には、勝幡城城郭図が展示されています。こちらも併せて、訪ねてみてはいかがでしょうか。

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勝幡城廃城とその後

永正年中(1504年~1521年)に築かれた勝幡城は、弘治元年(1555年)に城代の武藤掃部が尾張野府城へと移動すると、次第に衰退してゆき、遂には廃城となりました。

その後、建物がどういう状態で残されていたかは分かりませんが、江戸時代に行われた、萩原川(日光川の旧名)の河川改修工事によって、城域の大半が日光川に沈んでしまいます。

現在、勝幡城の遺構は残っていません。勝幡城があったことを示すものとしては、石碑が2つあるのみです。